日記

文鳥を亡くして思った、文鳥を飼うということ

先日、我が家の文鳥、ぴーちゃんが亡くなった。

年齢は9才半。

1週間ほど、ゲージの隅で眠ることが多くなり、昨日の朝はゲージの床で苦しそうに眠っていた。

落鳥という言葉があるように、文鳥は体調不良を隠し、ある時急に亡くなることが多いという。

でもぴーちゃんは、少しずつ弱っていって、ひっそりと亡くなった。

文鳥の平均寿命が7~10年というから、天寿を全うしたと言って良いと思う。

大好きだった、可愛かった、さみしい。

一緒に過ごしてくれて感謝。

そういう気持ちでいっぱいだ。

でも今回はそれを一旦脇に置いて、25歳の人間が文鳥の雛を飼い始めて、9年半経って思うことを綺麗事なしで書いてみようと思う。

完全依存の生き物に対する責任

文鳥に限らずだと思うけれど、ペットは飼い主に完全依存の存在だ。

私以外に、ぴーちゃんの命に責任を持ってくれる人はいなかった。

ぴーちゃんを幸せにするのも、不幸にするのも私次第。

いや、幸不幸以前に、ぴーちゃんの生き死にも私次第だ。

餌と水をちゃんと与え、清掃をする。

基本的にはたったそれだけではあるけれど、10年近く日々続けていくのは、やっぱり根気が必要だった。
(※半年ほど実家に預かってもらった期間アリ)

特に仕事や人間関係でメンタルがやられているときは。

自分のお風呂や歯ブラシだって億劫になるというのに。

でもぴーちゃんのお世話は絶対やらなければならない。

そうじゃないと、ぴーちゃんは死んでしまうから。

毎日毎日続けていく。いや、続けなければならない。

逃れることは、許されない。

(他の方に譲る、という道がゼロではないけれど、私にとっては現実的ではなかった)

事故も起さないように。

ぴーちゃん可愛い!

その気持は紛れもなく本物だった。

でもお世話がつらい、面倒だ、そんな気持ちも本物だった。

9年半で起こった、私のライフスタイルの変化

飼い始めた時、私はこのままずっと同じ生活が続くのだと思っていた。

ろくに稼げない仕事を実家でしていて、恋人もいたことがなかった。

なんとなく、このまま同じような日々が続くのだと思っていた。

父と二人暮らしで、父も仕事柄家をあけがちだったので、孤独でもあった。

自分以外の生き物が家にいて欲しかった。

そうして雛でお迎えしたぴーちゃん。

家から結構離れた郊外にあるコジマで購入した記憶がある。

連れ帰った後は、挿し餌を欠かさずして、冷やさないようにして、飼育ケースの横で眠り、起きたらぴーちゃんが死んでないか心配で跳ね起きた。

やがてぴーちゃんも雛から成鳥になり、ずっと同じ部屋で一緒に過ごす日々だった。

そこからしばらくして、

会社員として毎日片道2時間通勤するようになり、

一人暮らしを始め、

同棲を始め、

結婚し、

子供を産み、

現在絶賛育児中。

2歳の我が子が「ぴーちゃん、可愛いねぇ」とまで言うようになった。

9年半とは、そういう月日だった。

人によって変化は違うだろうけれど、当時想定できなかった変化が次々と起こる。

 

特に一人暮らしを始めた時は、大家さんにOKはもらえたのだけれど、壁は薄く鳴き声が心配だったので、結局実家の父に預かってもらった。

あの時はとても焦った。

父に預かってもらえた私は本当に運が良かったと思う。

まだ小さな小鳥だったからなんとかなったものの、もっと大きい、自分しかお世話のできないものだったらと考えると恐ろしい。

 

どうしてもつきまとう後悔

ぴーちゃんに対して、ずっと100%の愛情を向けられていたか?と聞かれると難しい。

特に子どもが生まれてからは、ぴーちゃんをかまってあげる時間(放鳥)は減ってしまった。

もっと沢山かまってあげるべきだったのでは?

もっと頻繁に清掃するべきだったのでは?

弱ってきたときに、もっと大好物のカナリアシードをあげるべきだった?
(カナリアシードは油分が多いせいか、たくさんあげるとぴーちゃんはハゲやすかった)

ペットを飼うことの重さ

ペットを拾ってきた子どもとその子の親が、

『この子をうちで飼わせて!』

『誰がお世話するの? 返してきなさい!』

『私がお世話するもん!お願い!』

アニメや漫画でもう何百回と見たやりとり。

そのやりとりの重さを、ぴーちゃんを通じて理解させてもらった。

 

文鳥を飼い始めた時、私はまだペットを拾ってきた子どもの側の視線だった。

この子がいる生活はどれほど楽しいだろう。

そんな期待に胸をワクワクさせていた。

実際、どんどん育って、成鳥になって、美しい歌声を聞かせてくれた。

たしかに最初の一年間は本当に素晴らしい日々だった。

ただ、雛から成鳥はあっという間だったけれど、そこからしばらくは変化はなくなってくる。

ぴーちゃんという存在が当たり前になってきて、しかし自分は自分で忙しくなってくる。

その時家にいたぴーちゃんは、もう心ときめかせてくれる存在ではなくなっていた。

もちろん可愛いという気持ちはあるし、癒やされもしている。

お世話ももちろんしているけど、なんだろう。

恋愛関係から夫婦になるみたいな?

 

『自分でお世話するもん!』と言った自分の中の子どもは、やがて大人になり、子どもが残していったペットを育てる親の役割に移行していった。

つまり、すごく心ときめくわけではないけれど、まさか放置するわけにはいかないので、お世話している。

もちろん可愛いところもある。でもどこか疲れている。

この気持ちを説明するのは難しい。

 

夏目漱石の、『文鳥』という作品がある。

文鳥を飼うことになった漱石は、最初こそかわいがっていたが、そのうち世話をしなくなる。

かと思えば急に慌てて世話をしてみたり、でもやっぱりそれは続かなくて…というお話。

文鳥を飼う前に読んで、絶対こんなことにはならないようにしよう、と心に決めた。

実際そんなことにはならなかった。

でも、どこかでそうならない努力をしていた。

努力がなければ、私がもう少し忍耐がなければ、いつ夏目漱石になっていたかわからない、とも思う。

新しい子をお迎えするか?

ぴーちゃんが亡くなって悲しんでいると2歳の子どもが、

「新しいぴーちゃん連れてきたらいいよ」

と慰めてくれた。

そう言われて、新しい文鳥をお迎えすることを想像してみる。

もうしばらくいいかな、と思う。

 

9年半、ちゃんと自分で責任を持って育てきった自負がある。

もっと幸せにしてあげたかった後悔もたくさんあるし、寂しさもあるけれど、同時に最後まで一緒に過ごせた充足感もある。

 

寿命の長い動物を責任をもって育てていくことは本当に簡単ではない。

犬や猫とくらべて、お世話がしやすいと言われる文鳥であっても、決してラクな日々ではなかった。

 

ありがとうぴーちゃん、たくさんのことを教えてくれて本当にありがとう。

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